俳句の季語
俳句にとって、季語は大きな役割がある。季語を必ず入れなければならないとする有季(季語絶対)派から季語よりも季感が大切とする「季感」派、無季でもよいとする無季容認、無季俳句が旧来の俳句的情趣を打破するという「無季」派まで、さまざまな考え方がある。
松田ひろむは、「俳句に季語はあってもなくてもいいのでしょうか。そうではありません。はっきりいって季語はあったほうがいいのです。俳句にとって『季語』は大きな役割を果たします。季語は象徴となるイメージを与えてくれるのです。これを連想力といってもいいでしょう。また時間と空間を大きく広げる役割があるのです」(『入門詠んで楽しむ俳句16週間』新星出版社)という。
また橋本直は2006年3月の現代俳句協会青年部勉強会で「季語の現在─本意の変遷と生成、その未来」の基調報告を行ない、そこで「本来の季語、季題の役割は、通時的/共時的な詩的機能を引き出すためのものであって、あたかも軛のごとく自由を束縛するものではない」と問題を提起している。このように総じて有季定型派よりも無季、自由律に眼を向けた俳人のほうがより深く季語の役割について考えをすすめている。
有季絶対派は「季語・季題があればいい」として、かえって緊張感を欠いているともいえよう。また「俳諧の発句はその場に対する挨拶の意味を濃厚に含んでいたからである」とするが、現代の俳句は「俳諧の発句」とは異なるものとして発展してきているので、俳諧の発句という説は説得力を持っていない。
季語が季節の情感を表現していたかといえば談林の俳諧などではかえって季語を季感と切り離すことで、笑いを生みだすものとしていた部分もあった。
タグ
2009年3月23日|
カテゴリー:俳句
